巨人対阪神戦の誤審に思うこと

  • 2011.04.24
By Black and Blue

昔は夜の8時台と言えば巨人戦のナイター中継ばかりを見ていたが、ここ数年見ることは稀になってきた。正直なところプロ野球よりも欧州南米サッカー、特にチャンピオンズリーグの方が遙かに面白いからだが、このブログでは何度も書いているように欧州南米サッカー目線から見ていると、日本人はまだまだ素直でずるさに欠ける点が多々あると思っている。

もちろんスポーツマンシップに乗っ取って正々堂々と戦うのは構わないのだが、プロサッカーの世界においては騙すことも技術のうちの一つと考える風潮は確かにある。お互い騙し騙され合い、騙された方が悪いという感覚でないとやっていけないのだ。その意味で審判も味方の一人、うまく騙して自軍に有利な判定を導くようにプレイするのも技術の一つだが、審判からは見えないだろうと思っていた悪質プレイが看破されたときには、当然のことながらその代償は大きい。

その典型的な事例を昨年度ワールドカップのオランダ対ブラジル戦のフェリペメロの足蹴りに見ることが出来るが、それを見破った西村さんの観察眼がNHKテレビで放送されていた。日頃から選手の行動を予測しながら常にグラウンドを駆け巡る姿勢を貫き続けていることが、フェリペメロの足蹴りを見破った最大の要因。蛇足ながらその後のフェリペメロのユベントスでのプレイを見ていると、あまり反省しているようには見えないのだが、要は本質は変わらないということなのだろう。

●フェリペ・メロ、顔面蹴りで3試合の出場停止処分

巨人阪神戦で誤審があったらしい。テレビは見ていないし動画も見ていない。なので記事から判断すると、脇谷選手は落球したのは間違いないが、詫びるどころか『捕りましたよ。自分の中ではスレスレのところでやってますから。VTR?テレビの映りが悪いんじゃないですか』と切り返したのがプロ野球ファンの逆鱗に触れたらしい。

●ポロリ?も判定アウトに!巨人に幸運の女神

脇谷は「捕りましたよ。自分の中ではスレスレのところでやってますから。VTR?テレビの映りが悪いんじゃないですか」と含み笑いで主張した。

●巨人・脇谷の落球誤審騒動 試合後コメントでツイッター大炎上

正直、違和感があります。サッカーでは「日本代表は、南米であるような、審判が見えないところでのずる賢さが必要」と言っている人は、今回の脇谷選手のプレーは当然、非難しませんよね?それに阪神1件の選手が同じことをやって、アウトと判定されたら、阪神ファンは非難しますか?たぶん非難しませんよね。結局、非難の基準が一貫していないんですよ。

各種書き込みを流し読みした限りでは、プロ野球ファンの怒りは心情的には大いに理解出来る。正直に落球を認めればいざ知らず、逆に『テレビの映りが悪いんじゃないですか』と開き直るあたり、前述の『スポーツマンシップに乗っ取って正々堂々と戦う』とはかけ離れているからだとの意見に集約されるが、個人的にはこれぐらいのふてぶてしい人間が一人、二人居た方がチーム全体としては活気があっていいのではないかと思っているのだ。

2010年05月10日『南アフリカワールドカップ決勝戦会場・FNBスタジアム』ではこう書いた。

まして南アフリカのヨハネスブルグは"リアル北斗の拳"とも揶揄されるような、世界で一番危険な都市との風評もちらほら聞こえてくる。そんな土地柄にサッカーという戦争をしにいくわけだから、こちらも外れた人間を用意しなくては勝てないだろう。朝青龍程度の素行問題で大騒ぎしている日本人にとってはなにをいわんやと言ったところかもしれないが、世界で勝つということはそういうことなのだ。現在の日本代表程度で百点満点の優等生が11人揃ったとしてもワールドカップで勝つことは無理。三戦全敗を喰らわないためにも、肉を切らせて骨を断つ駆け引きに長けた規格外の、外れた人間を一人連れて行ってほしいと思う。

英ルーニー、仏リベリ、伊カッサーノ&バロテッリ、スウェーデン・イブラヒモビッチ、オランダ・デヨンク& ボメル。実力は誰しもが認めるように天下一品。が、その素行を見ると物議を醸し出す発言を何度も繰り返しながらも、一向に反省することなく、したたかにサッカーの世界を確実に生き抜いているのだ。彼らの日頃の言動からすれば『テレビの映りが悪いんじゃないですか』は、幼稚園児の言動程度にしか思えないのだが、ここ日本では多くの人々がそう考えないのだろう。

脇谷選手の発言そのものは批判すべき対象であることは事実だが、受け取る側にも清濁併せて飲み込む度量が少しずつ出てきて欲しいと思う。脇谷選手は見たことがないので、どのレベルのプロ野球選手なのかは皆目分からないが、世界で勝つためには前述の各国問題児並みのレベルの人間が一人出てこないとまず無理。その意味でようやく物議を醸し出す発言をする人間が出てきたことに内心嬉しく思っている気持ちもあるのだ。